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県立牧野植物園は、見所がいっぱい。牧野富太郎の哲学(5月2007)



5月13日(2007)、高知市の五台山にある県立牧野植物園に行きました。今回の旅の目的の一つが、この植物園を見ることでした。園内にある様々な植物を見る楽しみの他にも大きな見所があります。それは、牧野富太郎博士記念館の展示です。それまで日本に無かった植物学の基礎を如何にして作り上げたのかという事やそもそも植物図鑑や植物辞典というもの自体が日本に無い頃に、どうやって勉強をし続けていったのかという苦労を知ることができて興奮します。そうした研究の成果として数々の図鑑を牧野富太郎先生は、世に送り出しました。私は、その一つである牧野植物図鑑を参考書として生物の授業で使っていました。一つ一つの植物の図説がとても緻密で、その全てを先生がお書きになったことを知り、とても驚いたことを思い出しました。「全く何も無いところからでも、新しい世界を創造していく人がいる。」それが牧野富太郎と言う人物なのです。そして、先生の事をもっといろいろと知りたいという思いから、今回の訪問となりました。

牧野富太郎先生の複製写真と並ぶ美奈子店長。とても楽しそうです。

園内には、牧野富太郎先生の研究成果についての展示はもちろん約3,000種類の植物もありますので、四季折々の花を見ることができます。入場料を払い中に入ると、すぐ右横にはお土産コーナーがありました。展示を見る前に先生の書籍も置かれていたので立ち寄りました。そこにあった一冊のノートを見て私はとても驚きました。それは、「赭鞭一撻ノート(しゃべんいったつ)」というノートです。このノートに書かれた勉強心得が今の時代にも通用する普遍性を持っているように感じました。そして牧野富太郎がこれを書いたのは、僅か20歳ぐらいの若者だったというのですから、なお驚きました。これから植物学を研究して行くに当たって、一体どのような考えで、どのような心構えで、どのような方法で進めて行けば良いのかについて15項目にして心構えがまとめられています。一読されれば、すぐに牧野富太郎先生の素晴らしさに涙するのではないかと思います。(赭鞭一撻の詳細は、上のリンク先をご覧下さい。)

植物園の入り口にある案内板。94歳まで生きた先生の植物学にかける情熱を感じました。

もしも、「学問を学ぶにはどうすれば良いか?」という命題がある時に、多くの人は学べる場所を探そうとします。そうです、学校です。しかし、日本に植物学というものが無かった時代に、牧野富太郎は洋書を頼りに独学をして、また先生と仰ぐ複数の人に教えをもらい、一つ一つの疑問を解決していったというのです。そして、松尾芭蕉以上に何度も日本各地を旅してその各地各地で、画家にスケッチを頼むことなく、自分で図画を引く技術を身につけては、一枚一枚描きあげていったのです。そして、ついには東京の大学などで植物学に取り組んでいる教授達が認めるほどの研究成果をあげていったというのです。学ぶ為には、小・中・高・大学と進学していくというのが一般的な方法ですが、そうした既存のルートではなく、自らの絶え間ない努力で新たな道を切り開いて行った、牧野富太郎という人間の持つとてつもなく大きいエネルギーに感動したのです。数々の成果の陰には、大事に育ててくれた祖父や妻の死、はたまた度重なる貧困があったといいます。それでも前を向いて研究を続けたエネルギーの大きさが想像を超えていると思いました。こうして、とうとう牧野富太郎が65歳になった時には、彼は一度も大学を卒業してはいないのに、世の中からその功績を認められ、理学博士の学位を受けることになるのです。(それよりも前から大学の講師や助教授の職にも就かれてご活躍もされています。)そして、お亡くなりになる95歳までの生涯を植物学の研究を続けた素晴らしい人生だったのです。好きな事を好きなだけやり通す事が出来た人生であり、とても幸せだったと仰っています。

牧野植物園の全景図です。赤い部分が入り口です。画面左下には、熱帯植物が生い茂る温室もあります。

こうした貴重な人生を歩まれた一人の人間の生き方から多くの事が学べる意味でも高知県立牧野植物園は、とても素晴らしい所だと思います。半日ぐらいの訪問時間では、牧野富太郎先生の95年間を理解することは不可能です。是非何度も足を運んで見られることをお勧めします。季節を変えれば、行く度により新たな発見があると思います。私もまた9月か11月に行ってみたいと思いました。^^)


県立牧野植物園は、見所がいっぱい。牧野富太郎の哲学(5月2007)